L.A.での大学時代の思い出
遥か昔、まだL.A.(ロサンゼルス)で大学生をやっていた頃の話🎓
大学のキャンパスはL.A.ダウンタウンの側で、お世辞
キャンパス内はキャンパスポリスが定期的に巡回していて
そんなある日の事、ラボの都合でいつもより遅くなり、暗くなってか
ただ運が悪い事は重なりL.A.ダウンタウンからの通勤ラッシュに巻き込
すると左車線の後ろから、奇声を上げながら一台の車が近
(やっべぇな、完全にクスリでストーンド(英語でラリパッパ状態の意味)
頼むから、早く動いてくれ!!🙏)
祈り虚しく、ついに隣にその怪しい車に並ばれてしまう😱
すると突然、その車の助手席に座っていた姉ちゃんが窓か
(ヤバイ、撃たれる❗️❗️俺の人生、ここまでかっ😭)
(お父さん、お母さん、ごめんなさい、俺は異国の地で散る事になりそうです🌸
猫飼ってるんだけど、俺が急にいなくなってしまってご飯とか大丈夫かなぁ?😹)
数秒間に今までの人生が過去も現在も含めて本当に走馬灯の様にフラッシュバ
(おおっ、人って本当に走馬灯の様に色々と思い浮かべる
所がいつまで経っても銃弾は飛び込んで来ないので、恐る
助手席の姉ちゃん、上半身裸で胸を振り乱しながら箱乗り
(見たら撃たれる、見たら撃たれる😨)
まだ胸を振り乱している気配...🤣
(初見、目測でアンダー65のCカップ、別にガン見する程の
まだ胸を振り乱している気配....🤣
ひたすら前を見続ける俺...😑
諦めたのか、その内前に進んで別の車にも同じ事やってま
いや〜、人って本当に生命の危機に面すると人生が走馬灯
いつか本当に人生の終焉を迎える時に、このL.A.での
#L.A. #ロサンゼルス #おっぱいぶるんぶるん
氏の変更の申立
私事であるが、今から数年ほど前に日本から妻を迎える事になった。
ちなみに当時の私はグリーンカードしか持っていなかった。
グリーンカード保持者の外国人が、アメリカに自分の婚約者(あるいは配偶者)を呼び寄せる事は不可能ではないのだが、ビザの優先度はそれこそ最低に近く、3年から下手をすると5年ぐらいかかる事が当時はザラであった。
(皮肉なことにトランプ政権になってからアメリカ人配偶者用のビザの申請処理を意図的に遅らせている結果、逆に外国人配偶者ビザの処理スピードが上がるという逆転現象が起きている)。
このため多くのグリーンカード保持者は、アメリカに帰化してアメリカ国籍を手にれ、それで日本から婚約者なり配偶者なりを呼び寄せる方法を取る事となる。
こうすればアメリカ人と外国人との国際結婚となり、ビザの優先度はほぼほぼ最優先となるからだ。
ご多分に漏れず自分もその道を辿る事となった。
以前にも述べた事があるが、今の日本の法律下では、成人した日本人が自らの意思に基づいて他国の国籍を取得した場合、自動的に日本の国籍を喪失する事となっている。
そして漢字を使わない国へと帰化した場合、公式に漢字の姓名を名乗る事は出来なくなり、日本の役所関連の手続きなどは全てカタカナで名前を表記するという元日本人にとってはダサさが溢れかえる事態となる。
そしてこの非常にダサい状況は結婚した相手にも及ぶ。
妻は結婚後、私の姓を名乗る事となったのだが、書類上はアメリカ人との国際結婚となったため、戸籍に姓はカタカナで表記される事となった。
(例: 私の姓がアメリカ帰化前に『山田』だとした場合、アメリカ人なので漢字姓は使う事は出来ず、妻の戸籍において『ヤマダ』とカタカナで登録される)
生まれた時から日系人というのならそれも仕方ないのかも知れないが、元日本人の矜持か、どうもこのカタカナ姓というのは受け入れ難かった。
せめて妻だけでも私がかつて有していた漢字姓に変更できないものかと思い、妻の一時帰国中に最後の住民票があった東京家裁に対して戸籍法第107条に基づいて「氏の変更許可の申立」を行う事とした。
戸籍法によるならば「やむを得ない事由」あるいは「正当な事由」がある場合、氏(姓)の変更が認められる事となっている。
ところがこの「やむを得ない事由」あるいは「正当な事由」というのは判断基準が明確ではなく、大別して大体以下の様な時に認められる可能性が高いとされている。
【やむを得ない事由】
・婚姻前の氏に戻したい。
・婚姻中に称していた氏にしたい。
・外国人の配偶者の氏にしたい。
・奇妙な氏である。
・むずかしくて正確に読まれない。
・通称として永年使用した。
・外国人の父・母の氏にしたい。
・外国人の配偶者の通称にしたい。
【正当な事由】
・奇妙な名である。
・むずかしくて正確に読まれない。
・同姓同名者がいて不便である。
・異性とまぎらわしい。
・外国人とまぎらわしい。
・神宮・僧侶となった(やめた)。
・通称として永年使用した。
妻は私と結婚する前、珍しい名前で、それこそ漢字一文字の姓であった。
さらに名前も漢字にて一文字だったので、例えば「宗 葵 」の様に一見すると大陸出身の様な印象を受け、そのために幼い頃からからかわれたり、日本人では無いと思われていた様である。
取り敢えず以下の「裁判所」からのリンクから「氏の変更許可の申立書」をダウンロードして、必要事項を記入した。
氏の変更許可の最も重要視される「申立の理由」としては以下を挙げた。
1. 夫(つまり私であるが)は1年前にアメリカに帰化する前に漢字姓を有していた。
2. 旧姓が変わっていて、中国の人に間違われることがあった。
3. 旧姓が変わっていたため幼少期にからかわれたり、嫌な思いをしたことがあった。
4. 夫の母も存命で、漢字姓を有している。
5. 夫の母との姻戚関係を円滑に行うために、漢字姓への変更をお願いしたい。
記入した申立書にコンビニで購入した収入印紙を貼り、以下の東京家裁の説明にあった様に、細かく指定された連絡用の切手を購入して同封し、妻が直接家庭裁判所に出向いて申立を提出した。
http://www.courts.go.jp/tokyo-f/vcms_lf/D25-1-3.docx
ちなみにこの時に真っ先に聞かれたのが、どれだけ日本に滞在出来るかだったそうだ。
氏の変更の申立の場合、審判謄本が出てから二週間の異議申し立ての期間が必ず発生するため、どれだけ最速で処理しようとも一ヶ月では厳しいと告げられた。
ただこちらの状況も鑑みてくれて、努力だけはしてくれると言ってくれたらしい(ありがたい話である)。
申立書を提出してから4日ぐらいしてから裁判所から妻に電話があり、参与員によって審理・聞き取りが行われる日が数日後に設定された。
氏の変更を行うにやむ終えない事情を証する書類として、妻には以下のものを持たせた。
1. 夫である元日本人の除籍謄本(元々の漢字姓を証明するため)
2. 夫のアメリカ帰化証明書の謄本 (アメリカ移民局から発行して貰ったG-24)
3. 上記の和訳 (自分で翻訳してサイン済みのもの)
4. 妻の現在のカタカナ姓の戸籍謄本
参与員による聞き取りは、申立理由の再確認と「保守的な裁判官によっては許可されない事もあるので、こればっかりはやってみないと分からない」という10分程度のものだったらしい。
その後、裁判官による結審を仰ぐ事となった。
果たしてその結果・・・「許可」となり、審判書謄本が即日発行される事となった!
その日の内に確定証明書の申請を行い、あとはひたすら14日間の異議申し立て期間を待つ事となった。(異議申し立てを行うような、そんな奇特な人はいないと思うが法律で決められている以上は仕方ない)
ただここで問題となって来たのは、妻の日本滞在のリミットである。
異議申し立ての期間の二週間を過ぎてしまうと、妻がニューヨークに戻って来る日の方がどうしても先に来てしまう。
審判の結果を戸籍に反映させるためには、確定証明書を区役所に提出しなければならない。
調べた結果、確定証明書の提出は本人である必要は無く、使い人でも大丈夫という事がわかった。
あとは確定証明書に付随させる申請書類だが、これは全国共通である事を良い事に、札幌市のホームページからダウンロードさせて貰った。
ただここで悩んだのが、最後の届出人の署名押印の部分である。
私自身は戸籍を喪失しているため、厳密には妻の戸籍に入籍している訳ではなく、外国人として言わば付随している様な状態だからだ。(外国人には戸籍が無いので、入籍そのものが厳密には出来ない)
分からない場合はもう全パターン分を準備するしかないという事で、取り敢えず以下の3パターンを用意しおいた。
1. 戸籍筆頭者の妻だけが署名押印したもの
2. 戸籍筆頭者の妻の署名押印プラス私の署名と押印(アルファベットで作成した印鑑)
3. 戸籍筆頭者の妻の署名押印プラス私の署名とアメリカで使用している直筆サイン
妻がニューヨークに戻って来て数日してから後、家庭裁判所から郵送にて確定証明書が妻の実家に届いた。
前もってお願いしていた妻の母親(私にとっての義母)に、妻の本籍地のある目黒区役所に上記の3つの書類と共に行って貰い、氏の変更届を完了して貰った。
残念ながら準備した3パターンの内のどの書類が受け付けられたのか、義母に確認しなかったので、詳細は不明であるが、とにかく受理はして貰えた。
それから半年して後、妻が再び一時帰国したので実際に自分の戸籍謄本を取って貰い、無事に私が以前使用していた漢字姓へと氏の変更が完了した事を確認した。
蛇足ではあるが、今回の様に申立によって氏の変更を実施した場合、例え離婚したとしても旧姓に戻ることは出来ない。
その場合は再度、氏の変更届けの申立にて改姓する必要がある。
#氏の変更 #姓の変更 #国際結婚
ビザ奴隷、現代の蟹工船・・・?
前回(詳細に関しては上記を参照)に続いてアメリカでの就職やビザ関連のお話。
夢を抱いてアメリカに留学したり、あるいは就職したりする人が避けて通れないのがビザの問題である。
アメリカにおけるビザは非常に細分化されており、特に昨今のトランプ政権においては、アメリカ人の労働を奪いかねない様なビザに関してはますます取得するのが厳しくなっている。
例えば今までだったら、ほぼ無制限に発行されていたアメリカ人の配偶者用のCR-1/IR-1と呼ばれる移民ビザの年間発行数が、それこそ半分以下にされるぐらい厳しさが増している(意図的にビザ審査に余計に時間をかけることによって発行数を下げている)。
アメリカで合法的に働くためのビザは幾つかあるが、大抵の日系企業などはE-1/2(駐在員など主に米国間との貿易を目的としたビザ)か、あるいはL-1a/b(米国内にある本社/支社への社内異動を目的としたビザ)になるのでは無いかと思われる。(他にもインターンなど研修を目的としたJ-1というのもあるが)。
日本の本社/支社などから駐在員としてアメリカに派遣されている場合には、住宅手当やボーナス等も含めて手厚い待遇でアメリカ生活を送れる事が多いが、駐在員から現地採用となったり、あるいは当初から現地採用だった場合は、もしかしたら待ち受けているのは「ビザ奴隷」と呼ばれるイバラの道かも知れない・・・。
基本的にE-1/2、L-1a/bビザはスポンサーとなっている企業に在籍している時だけ有効なビザであり、転職などは認めれていない。(ただしE-1に限って言えば転職先の企業が条件を満たしていればこの限りでは無いが・・・)
アメリカは基本的に実力があればキャリアアップとして転職するのが当たり前の国であり、逆に大幅な昇給は転職なくして望めないという現実があったりもする。
ところが上記であげたビザはその転職が許されていない。
つまり会社としてはビザのスポンサーでいる限り、アメリカに居続けたいと願う社員の生命線を握っている事になる。
これによって会社としては、ビザサポートしている社員に対しては大幅な昇給を与えなくとも、あるいはどんなに労働条件を悪くしようとも、極端な話それこそ使い捨てにしようとも、絶対に逃げられる事はない。
何故なら「会社を辞める = 日本に帰国」だからだ。
ビザのスポンサー企業の中には 奴隷労働に近い様な劣悪な労働条件で社員を抱えている様な所もある。
それこそ日本のIT企業の土建屋的なピラミッド構造の孫受け・ひ孫受け会社の社員に匹敵するぐらいブラックな所も多い。
まさに現代における奴隷労働、蟹工船である・・・。
そうまでしてアメリカに居続けたいのか、あるいはそうまでしてアメリカに来たいのかと言う話になる訳だが、そこまでしてアメリカにしがみ続けていたい人も一定数いる事は確かである。
これがますますそういったSweatshop(労働搾取)的な企業態度を助長させているという悪循環になっている。
他の例としては、ビザをサポートしている会社の中には有給インターンシップ等のJ-1ビザをサポートする代わりに、斡旋業者と組んで「申請者の英語力が弱い」などと難癖をつけて「ビザサポートする代わりに追加の英会話レッスンを受けてください」と称して10万~20万などの追加料金を申請者に求めたりする様な所がある。
それでも最終的にビザのスポンサー企業になってくれたらまだマシな方で、中には「やっぱりだめでした」とレッスン料を搾取するだけと言ったほとんど詐欺まがいの所もある。
最初にこれを耳にした時には「本当に良くこんな事考えるな」と逆に妙に感心してしまった程である。
勿論全部が全部そういった企業ばかりではないのも確かである。
運良くまともな企業にビザのスポンサーになって貰い、さらに運良くグリーンカード(永住権)のスポンサーになって貰える事も当然あるだろう。
ただ永住権を手に入れたら、それで全てが解決かというとそうでもないという現実に気付く事になる。
前回でも取り上げたが、アメリカでの転職において最も強力に物を言うのは「コネ」である。
例えば企業とかにおいて新たなポジションが出来たりすると、社内に「今度こういったポジションに空きが出来るんだけど、誰か家族/知り合いに候補者いないかな?」とメールが流れる。
コネがあれば、そういった情報に関していち早く知らせて貰えたりする訳である。
勿論、正攻法でも転職出来る確率はゼロでは無い。
ゼロではないのだが、それこそ転職希望者の初期のふるい分けをしているのが人間ではく機械だったりする事もあって、そういったものを突破するための細かいテクニックとかも求められたりする。
毎日の様に新たな企業を見つけてはひたすらレジュメを送り続けるぐらいの気概が無いと正攻法では厳しいかも知れない。
そうまでして転職に成功したしても、ある日突然ポジションが無くなって人員整理の対象になってしまう事もアメリカ企業なら当然ながらあり得る話である。
そうならないためにも日頃から上司の機嫌を取っておいて、いざという時には守って貰おうとするのは何処の国においても同じなのかも知れない・・・(ひたすら泥臭く現場の叩き上げのITスキルだけでやって来た自分には無理な話なのだが・・・)。
#ビザ奴隷 #アメリカ転職
アメリカでの就職/転職
今でこそ米系の教育系NPOのIT部門で働いているものの、アメリカに仕事としてやってきた当初はビザの関係もあって日系のIT系企業だった。
アメリカに来る前は同じ会社のオランダにある支社で働いていたのだが、大学生時代をアメリカのロサンゼルスで過ごした自分にとって、どうも水が合わずに2年弱で逃げ出したというのが実情だったりする。
その後、運良くその会社でグリーンカードをサポートして貰い、晴れてアメリカ永住者となったのが今から10年以上前の話である。
アメリカで就職を希望する人はそれなりに多いとは思うが、やはり一番のネックになるのがビザの問題であろう。
専門的なスキルに対して発行される所謂労働ビザのH-1bビザは年々審査基準が厳しくなっており、アメリカの大学を出たとしても余程の優れたスキルを持っていない限りは、取得するのは非常に困難となっている。
特にこれを拍車をかけているのが、H1-bキャップと呼ばれる年間におけるビザの発行制限数で、4大卒は一番この枠が狭い(修士卒以上には別枠がある)。
でもってこの年間発行制限数に達したらどうなるかというと、そこは抽選になる。
つまりどれだけ実力的に優れた人材であっても、最後の最後は運頼みなのだ。
その運に関しても、インドや中国の会社が下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる理論で大量に自分達の社員に対して申込みを行うため、日本人が単発で申し込んでもますます当たりにくくなっている。
アメリカにおいて2回ほど米系企業へと転職を経験している身から言わせて貰うと、最も転職(就職)に役立つものはと言えば、身も蓋もない言い方だが「コネ」と「職歴」であろう。
「職歴」は分かるとして、なぜ「コネ」なのか?
アメリカの人事部にはそれこそ毎日の様にレジュメ(職歴書)が山の様にe-mailで届く。
人事の人間は届いたレジュメ全部に目を通すほど暇ではない。
ではどうしているかというと、専用のフィルタリングソフトを入れておいて、それが申込者の職歴や経歴がマッチしている候補だけが選別される仕様になっている。
つまり「コネ」が無いと、余程その会社で求められている様な人材でない限り、人の目に触れる事なく自分の申し込んだレジュメは自動でゴミ箱行きという可能性が圧倒的多数なのである。
運良くレジュメの選別を通り抜けたとして、次に待ち構えているのがジョブインタビュー、所謂面接である。
相手の会社に呼びつけられる場合もそれなりにあるとは思うが、一番最初のスクリーニングとして人事かあるいは直属の上司となる人物からの電話によるインタビューなどが行われる事も多い。
運良く電話インタビューをパス出来ると、実際に顔を合わせての面接に進む。
ちなみに今の会社に入る時には、全くコネがなかったので、全て正攻法で挑む事となった。
特にNPO系というのもあって、通常以上にインタビューに費やされた気がした。
実際に行われたインタビューを列挙すると以下の通りとなる。
1. 人事部との電話でのインタビュー
2. 直属の上司との電話でのインタビュー
3. 直属の上司と実際に会ってのインタビュー
4. 直属の上司のマネージャーとのインタビュー
5. カウンターパート部門の人とインタビュー
6. 部門長とのインタビュー
7. 人事との最終インタビュー
実際はここまでインタビューを実施する事は稀だと思うが、それでも少なくも電話プラス面通しを入れて2回は行うという所が多いのでは無いかと思う。
アメリカで就職を希望する人はそれこそ世界中にいるものと思われる。
自分の職種はIT系だが、同僚には圧倒的にインドの人や中国の人達が多い。
一つのポジションに対して、全米にいるアメリカ人達だけでなく、そういったインド系・中国系エンジニア達と少ないパイを奪い合い、勝ち残って行くだけの実力が求められる。
実力に見合わなければピンクスリップ、つまりは人員整理が待ち受けている。
(ピンクスリップ: 諸説あるが、人員整理通告にピンク色の紙が用いられたいたから)
アメリカの企業においては、会社の業績次第である日突然自分のポジションが無くなる事なんかザラにある。
ただこの国は良くも悪くもセカンドチャンスの国でもある。
それこそ一度くらい人員整理を経験してようやっとアメリカで一人前くらい思っておいた方が良いくらいかも知れない。
アメリカに帰化するという事
ふと気が付くとアメリカ生活も20年を超えていた。
ただ色々と訳あって、今から3年前ぐらい前のオバマ政権の最期の方の時にアメリカへと帰化する運びとなった。
現在の日本の法律下では、成人した人間が自らの意思に基づいて他国の国籍を取得した場合、無条件で自動的に日本国籍を喪失する事になっている(国籍法11条)。
中には届け出さえ出さなければ日本国籍をそのまま維持できると勘違いしている人達も一定数いる様であるが、国籍喪失した事実が発覚すれば、遡及して罰則なり手続きの無効化なりが適用される事となるので、その辺りは良く良く考えて行動した方が良いだろう。
自分はアメリカ国籍取得後に在ニューヨーク日本国総領事館に国籍喪失届けを提出しているため、日本の戸籍は除籍状態となっている。
アメリカに帰化する事に抵抗は全く無かったかというと、やはりそれは嘘となる。
人生の4分の3以上は海外生活ではあるが、小学校高学年から高校卒業までは日本で生活していたというのもあって、自分のアイデンティティはと言うとやはり「日本人」の一言に尽きるからだ。
アメリカに帰化するプロセスに関してはネット上にも色々と詳細が載っているので、ここでは割愛するが、その一番最後のプロセスの宣誓式において、米国に帰化するためには「星条旗」と「アメリカ合衆国憲法」の下、アメリカという国家に対して不動の忠誠を誓わされる事となっている。
特に以前の国家に対する全ての忠誠心を捨て去り、必要とあれば法の下、武器を取ってアメリカ合衆国を守る事も誓わされる。
つまりアメリカに帰化するという事は、仮に自分の祖国とアメリカとが戦争状態になった時には、祖国である日本に対して、ひいては自分の親兄弟に対してさえ銃口を向ける覚悟が要求されるのだ。
勿論、今の日本とアメリカとの関係を鑑みればそうなる可能性は限りなくゼロに近いのだが・・・。
そんな自分もアメリカに帰化してからまもなく丸三年が過ぎようとしている。
日本に入国する時には、当然ながらアメリカ人として入国している。
一番最初にアメリカのパスポートで日本に入国した時に「上陸許可」と書かれたスタンプを貼られて、大笑いした事も今となっては良い思い出である。
今現在、自分はニューヨークでアメリカの教育系NPO団体のIT部門で仕事をしている。
この国において、教育格差は大きな問題であり、特に貧困層はそのジレンマから抜け出す事は非常に困難となっている。
アメリカ合衆国に対して忠誠を誓った以上、この国が少しでも良くなる事にこれからも貢献して行ければと願って止まない。
ファーストキス
2週間強、休暇を兼ねて日本に行っていて、昨日の夕方便にてニューヨークに戻って来た。
時差ボケが昔から酷く、昨日も夜の10時まで頑張って起きていたものの、結局その後に眠れたのは3時間ぐらいで、その後眠れなかったので今は妙なテンションでこれを書いている😂
今回も前回に続いてひたすら軟派な話😝
キス、6月から8月にかけて産卵期前に旬を迎え、天ぷらにすると美味い魚の事・・・ではないという、取り敢えずのお約束😅
青春(笑)すら迎えていない、それこそまだまだ子供だった頃のお話。
【東京編その1】
幼い頃から父親の仕事の都合で、海外で暮らす事が多かった自分も、幼稚園時代は東京の練馬区で過ごしていた。
当時はたまに特定のミーティングポイントまでの集団降園などが行われていて、自分も母親が待つ歩道橋の側まで、同じ組の女の子達と手をつないで歩いて行ったものである。
ある時から何故か同じ組の女の子からミーティングポイントでの別れ際に頬にキスをされる様になり、幼子心にそれが嫌で、解散後にダッシュで歩道橋を渡って母親が待つ方へと逃げ出す様になっていた(今考えると勿体ない話である)。
ただどうやら当時の私は足が遅かった様で(今も決して速くはない)、ダッシュで逃げ出しても、大抵は歩道橋の真ん中辺りでその女の子に追いつかれタックル=>テイクダウン=>ローリング=>マウント=>頬にぶっちゅ~😘とされる日々が卒園まで続く事となる・・・😂
彼女が女子レスリングの道に進んでいたらきっとメダリストに成れたんじゃないかと、今更ながらに思う・・・。
【東京編その2】
無事に卒園し、歩道橋の上で押し倒されて(笑)キスされる女の子とは学区が異なったため、心機一転平穏な小学一年生生活を送る日々であった😆
小学校入学と同時に父親の仕事の都合で南米アルゼンチンへの転勤が決まっていたため、1年生の一学期まで通う事になっていた。
そんな一学期も終わりになる頃、今となっては記憶が定かではないが、何故か同じクラスの女の子の家で遊ぶ事になった。
ランドセルを家に置いて、家の鍵を持って(鍵っ子では無かったのだが何故かその日鍵を持って家を出た)その子の家に行って、夕方近くまで庭で遊んでいた。
そして一通り遊び終わって、さあ家に帰ろうとした時に鍵を無くしている事に気付いた😨
取り敢えず遊んでいた庭を二人して捜索していて、暫くすると彼女から
「鍵、見つかったよ~😄」と。
(おおっ、鍵見つけてくれた!マジで天使!?これで家に帰れる!😆)
「ありがとう、見つけてくれた鍵貰っても良い?😃」
「頬にキスしてくれたら返してあげる💓」
(天使と思ったら悪魔だったでござる・・・😨)
その日、俺は家の鍵のために悪魔に魂を売った・・・😭
【南米アルゼンチン編その1】
小学校一年生の一学期が終わり、南米アルゼンチンへと引っ越す事となった。
当時のアルゼンチンはイタリア系移民が4割近くを占めるガチのラテン系のノリの国である。
基本的に挨拶はハグとチークキスの国であり、子供に対しては男性からも女性からもこのチークキスの洗礼を受ける事になる・・・。
キスに対しては半ば恐怖な思い出しかない自分にはこれは最初は物凄くキツかった。
特にお婆ちゃん達とかからは情け容赦なく頬に「ぶっちゅ~😘」と口紅が付くらいにされる・・・。
しかも左右にだ❣
かつてイエス様は「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」と言われたが、アルゼンチンでは「誰かがあなたの右の頬に接吻するなら、左の頬をも向けなさい。」である。
お婆ちゃんから右の頬だけキスされた後に「(サーセン、今日の所はこれぐらいで勘弁しておいてください😨)」と幼心に何度思った事か・・・。
【南米アルゼンチン編その2】
そんな南米アルゼンチンにおいても、日本人学校内は文字通り全生徒・先生は基本的に日本人だけなので校内の文化も必然的に日本と同じとなる。
友達同士で会っても別にチークキスする事もなく、学校内にいる限りは心穏やかな日々を送る事が出来ていた。
当時の生徒達はほとんどが駐在員の子女で、大体3年もすると日本に帰国する事が一般的だった。
そんな中、確か小学校1年の時だったと思うが、帰国が決まった同じクラスの女の子(そもそも一学年に一クラスしか無いのだが)がいて自分は「そっか~、あの娘あと少しで帰るんだ」ぐらいにしか思っていなかった。
そんな彼女の帰国が残り一週間ともなったある時、下校間際でスクールバスが来るので、荷物を取りに教室の戻ったらその娘がいて、寄って来て何故か突然頬にキスをされた。
一瞬の事だったので「へっ?😨」と呆然とキスされた方の頬を抑える自分。
その後、彼女は「ふふふっ😄」と笑って何事も無かった様にスクールバスの方へと歩いて行った。
それからは特に何もなく、彼女は予定通り帰国していった。
きっと今頃は子供が3人ぐらいいる良い肝っ玉母さんになっているんだろう😅
【南米アルゼンチン編その3】
小学校も3年となり、いい加減にチークキスにも慣れた頃の話。
父親はそれこそ典型的な昭和の男だったが、子煩悩で夏休みは大抵は家族旅行に連れて行ってくれてた。
その年の夏休みはコルドバ州の湖の側にあるコテージで家族で夏休みを過ごしていた。
隣接するコテージにはアルゼンチン人の数家族が先にいて、上はたしか高校生くらいの子から下は自分よりも何歳か年下の子たち5、6人ぐらい居たと思った。
コテージが近かったのと、年齢が近かったというのもあって、その子達と一緒に遊んだり、ご飯を食べたりする様になるのに時間はそんなにはかからなかった。
当時は日本人の男の子なんてものは珍しかったのだろう。
高校生ぐらいの一番上のお姉ちゃんに気に入られて、夕方から湖で一緒泳いだりして良く遊んでくれていたのを覚えている。
ある日の夕方、その子達のコテージへと遊びに行き、二段ベッドの上で寝転がってテレビを観ていたら、仲良くしてくれていた姉ちゃんもベッドに登って来て
(あ~、二段ベッドの上は姉ちゃんのベッドなのかな?
はいはい、取り敢えずチークキスで挨拶ね?😄)
などと思っていた矢先、とつぜん唇に触れる柔らかい感触。
(ちょっ、姉ちゃん、それっ、俺のファーストキス!?😂😂😂)
余りにの事にガバッと飛び起きて茫然自失となる自分😣
姉ちゃん、それ見て大爆笑してました😅
まあ、沢山の弟や妹達に囲まれていたから、きっと同じ感覚だったのかなと・・・😅
唯一の救いは姉ちゃんが綺麗だったという事。
ただもう今となっては顔を思い出すことも出来ないけど、きっと綺麗だったと信じたい、うん綺麗だったはず!?😂😂😂
思い出とは美化されるためにあるものである・・・。
#ファーストキス #アルゼンチン #南米 #思い出
ルーフトップバー
前回が余りにもマニアックな技術情報だったので、今回は遥かにソフトな内容に笑
今年は割とマンハッタン内のルーフトップバーで飲む機会に恵まれたので、メモも兼ねて独断と偏見で書けたらと思う。(あくまで個人の見解なので、異論反論は当然受けつけています)
【Dear Irving On Hudson】
ホームページ: https://www.alizhotel.com/rooftop-bar.html
まだ今年にオープンしたばっかりの比較的新しいルーフトップバー。
ミッドタウンのPort Authority Bus Stationから歩いてほんとに一分以内に位置している。
料理はスライダーなど軽くつまめるタイプのものばかりなので、がっつりと食べながら呑むというのには適していないかも知れない。
屋内がメインでバルコニーからも夜景を楽しめる。
【The Skylark】
ホームページ: https://theskylarknyc.com/
同名の日本のファミレスとは関係ないと思われる。
料理も比較的充実していて、屋内がメインというのもあってニューヨーク市に冬に訪れる人たちにも行きやい場所。
タイムズスクエアからも歩ける距離。
わさび風味のカラマリ(イカのフライ)や、ごま風味の揚げ(炒め?)枝豆は日本人の口にも合う。
【Bar 54】
ホームページ: https://www.hyatt.com/en-US/hotel/new-york/hyatt-centric-times-square-new-york/nycts/dining
ここもタイムズスクエアから歩いて行ける距離にあるルーフトップバー。
Hyattホテルの54階に位置している。
おそらくだが、一階にあるイタリアン系のレストラン(ルーフトップバーへの受付も兼ねている)から料理が運ばれて来るので、ガッツリと食事しながら呑みたいという人には一番お勧め出来るかも知れない。
予約無しで行くと大抵は中で待たされる可能性が高い。
予約していても最初は中の席で待たされて、外の席が空き次第、順次案内されるという形を取られる事が多い。
あとここでは生ビール系が呑めるのもビール好きにはありがたい。
【Roof at Park South】
ホームページ: https://www.roofatparksouth.com/
近くに良く行くアメリカンスタイルのBBQレストランがあるので、その帰りに軽く一杯呑むというのに適している。
いつもお腹いっぱいで臨む事が多いため、実は食べ物メニューは試した事が無い・・・。
メキシカン系の料理が多そうな気はする。
こじんまりとしていて、ルーフトップバーの雰囲気を知りたい様な場合には良いかも知れない。
あとここも生ビールが呑めるのが嬉しい。
勿論、ここで紹介した所以外にもそれこそ多くのルーフトップバーがある。
ブルックリンのダンボ地区からマンハッタンのダウンタウンを眺めながら一杯やるというのも有りかも知れない。
チャンスがあったらレポートしてみたい。
#ニューヨーク #マンハッタン #ルーフトップバー